おやじを知らないわたし-2

この記事からの続き

 

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父親との接点は唯一、月に一度生活費を受け取ることだったわたしは、祖父母の家で生活していた。

幼少期はかわいがってくれた祖父母だったが、一緒に住みだすと摩擦が起こり、半年に一回は祖母から説教され、いつも泣いていた。

普通に過ごしているだけなのに、息苦しい毎日だった。

 

祖母は会社勤めであることを誇りに持っている人物だった。わたしは嫌いになってしまった祖母の影響をうけ、高校を卒業して早く就職したい。そして遠くに行きたいと思うようになった。

 

工業高校を経て東京の会社に就職した。

尾崎豊よろしく支配からの卒業を果たし、しばたく経ったわたしに一本の電話が入った。

 

父からの金の無心だった。

 

どうやら事故を原チャリで事故をおこしてしまったらしい。

電話をしているときは要求された5万円をすぐにでも払ってあげようと考えていたが、電話口でスラスラと振込先を伝える声にはっと冷静になった。

 

そのときの私にとっては、父の状態よりも5万円のほうが大切だと思ってしまった。

淡々と父の携帯電話を着信拒否にし、それから連絡はとっていない。

数年経った今でも変わらない。私にとって父は限りなく他人のような存在になってしまった。いや、ずっと前から他人だったのかもしれない。

 

ときどき父親がらみの話題を見聞きすると、欠乏感と淋しさがこみあげてくる。

そしていつか自分自身が父になるとき、どうあるべきなのかがわからない。

なんせ父親なんて、いてもいなくても変わらない存在だと思っているからだ。

 

年齢を重ねるにつれ、父を許し、受け入れる気がだんだんと薄れていくのを感じる。

もしかしたら知りたくないだけなのかもしれない。

そんなことで時々悩む。

 

好きの反対は無関心とマザーテレサは言った。

我々は他人への関心や依存をそらすことで”人付き合い”が上手くなっているのだと思う。わたしは早くに人付き合いの上手い子どもになってしまった。今思えばなんとつまらない日々を送ってきたのだろう。

 

記事のオチとしては父の死のしらせが届くのが、まとまりがあって良いかもわからないが、あいにくそんなことはない。いまだに父の近況を全く知らないのだ。

 

いつか本当に父の死を知り、現在の私の行いを悔いることができるのならば、わたしたちは家族だったと感じることができるのかもしれない。