甲子園はスポーツ諸悪の根源なのか?元高校球児が思うこと

甲子園がやってくる。

今年は記念すべき100回記念大会を迎え大きな盛り上がりを見せている。

ついついチャンネルをNHKに合わせてしまうのはかつて高校球児だった性(さが)だろうか。

 

先日、ダラダラとYouTubeをみていたら、AbemaTVの番宣で「甲子園は涼しく京セラドームで!」と題し、ひろゆきさんと橋下徹さんが現行の甲子園制度を批判していた。

 

特に橋下さんの発言が面白く。

「甲子園の本質は朝日とNHKの利権争い」

「この炎天下で過重に働かせる甲子園は労基だったらアウト。」

「そもそも軍隊養成の側面のある高校野球文化(坊主、監督への忠誠心)自体が時代錯誤である、最近の日大アメフト部などのスポーツスキャンダルの根源には高校野球の悪しき伝統にある。」

ーなどの主張はとても合理的な一面があると感じた。

 

合理的な批判のズレ

わたしは、小学2年に野球を始めた頃から甲子園への淡い憧れを抱いていた。

そしてその時母親にこう言ったことをを覚えている。

「もし将来甲子園がなくなったらどうしよう。」と

そのとき母親はにこっと笑いながら、なくなるわけないじゃないと言ったが、現実に甲子園はなくなっていない。

小2の私はなぜそんなことを言ったのか、詳しいことは覚えていないものの、きっと大好きな野球という遊びが取り上げられることに対して不安だったのだと思う。

 

当時の田舎の小学生だった私は「遊ぶ」ことに飢えていた。

近所の公園でのボール遊びやスケボーなどはもはや、”やってはいけないこと”で、外で遊ぶよりもテレビゲームが主流だった。

ゲームを持っていなかった私は、友達の家にゲームをしに行っていた。

ゆとり教育なんてものが始まったが、何をすればいいかわからない。そんなモヤモヤした日々で出会ったのが少年野球チームだった。

なにかやるべきことがある。というのは私にとって生きがいになったのだろう。

まだ7歳ぐらいだったけど世界は野球でまわっていた。

 

話は戻り。

甲子園は興行であり、遊びであり、祭りなのだと思う。

橋下さんらの主張はもっともらしく合理的ななことは理解できるが、その常識を超越したものが”遊び”の本質だと思う。

つまり、意味なんて求めること自体がナンセンスなのだ。

 

田舎の小学生が朝早くからユニフォームに袖を通し、車に乗ってスタジアムに行き、拾いスタジアムで大声を出し、野球を楽しむ。

まさに無駄、非効率、意味なんてないのかもしれないけども。わたしにとってはかけがえのない思い出になっているものだ。

甲子園はその延長にある。いわば聖地のようなものだ。

 

わたしはそんな無駄なことに一生懸命になる子供とその遊び場を準備する大人がいる。甲子園、高校野球という文化が残っていることが嬉しく思うし、できればこのまま残ってほしいと思っている。

 

現場は健康対策にかなり気をつかっていることも理解しているつもりだ。

もちろん猛暑やケガの対策は早急に合理化すべきだと思う。

そんなことを思いながら、ことしの夏も楽しみだ。